2008.4.25 松本誠
「土建国家」を推進、支配する財政構造にメスを
道路特定財源の一般財源化やガソリン税の暫定税率撤廃による大幅なガソリン価格の低下などによって、道路を中心とした公共土木事業のあり方と税金のずさんな使われ方が、庶民の前に否応なくクローズアップされた。道路だけではない。公共土木事業のもう一つの旗頭でもあるダム建設についても、並行してその正当性が問われつつある。
第三者機関によるダム不要論への“官”の抵抗
2001年に発足して以来8年の経緯を経て、淀川水系のダム建設計画に異を唱えてきた国土交通省近畿地方整備局の諮問機関「淀川水系流域委員会」が4月9日、同省が計画中の4つのダムに対して「治水効果は極めて小さい。ダム以外の治水対策の検討を尽くしていない」と必要性を否定する見解をまとめた。
同委員会は2003年に同じ理由から、計画中の5つのダムを建設しないとの提言をまとめたが、国は昨年この委員会を一時休止し委員の半数を入れ替えて半年ぶりに再開、委員会の提言に反して4つのダムの建設を推進する河川整備計画の原案を提示した。今回の委員会のダム否定意見書は、出席した20名の委員のうち19名が一致、残り1名も委員会としての結論には反対しない考えを表明して、全会一致の結論だった。同整備局は、なお「ダム建設は必要だ」と主張し、次回の委員会で反論する考えを表明している。
ダム問題をめぐる第三者機関の提言は、筆者が委員長を務めている兵庫県の武庫川流域委員会でも5年越しの議論をつづけ、委員会は県に対して武庫川ダムは必要ないことを提言している。一時はダム計画を白紙の状態に戻して委員会を設置した兵庫県はなお、ダム計画も検討対象に固執して整備計画の原案づくりを進めている。ダム建設をめぐる議論は、ここ数十年来、全国各地で計画を進める行政と反対運動が真っ向から対立してきたが、ここにきて行政自らが選んだ第三者機関の結論とも対立する事態になっている。何ゆえに、行政はここまでダム建設に固執するのだろうか?
ダム建設志向を促す予算付けの構造
そんな動きの中で、ダム問題が現在の道路問題と深く結びついていることがクローズアップされてきた。
4月12日の毎日新聞の報道によると、ダム問題の象徴的なケースの一つである群馬県長野原町の利根川水系吾妻川中流に計画され半世紀におよぶ反対運動に立ち往生している「八ツ場(やんば)ダム」計画では、道路特定財源を原資とする「道路整備特別会計」(道路特会)から水没予定地の付け替え道路建設に約170億円が支出されていた。この資金は、公表されているダムの総事業費には含まれていない。肝心のダムが姿を見せないまま、付け替え道路はすでに5割が完成し、潤沢な道路特会による周辺整備だけが進んでいるという。
ダム建設に伴う巨額の費用の一部を、道路特会が肩代わりして見かけのダム事業費を圧縮して見せている問題もさることながら、約4600億円にのぼるダムの総事業費は「治水特会」と呼ぶ治水特別会計から支出される。
ダム建設で常に問題になっているのは、治水事業の中でもダム建設だけは特別の会計から優先的に補助金が支出される仕組みだ。堤防強化や河道改修などの治水事業は、気の遠くなるほどの長期間をかけて少しずつしか予算がつかないが、ダム計画だと一挙に巨額の予算が優先的につく。したがって、河川行政担当者は「ダムなら時間的にも治水効果が早く現れる」とダム事業に頼る傾向が強い。ダムに投じる予算を堤防強化など河川改修に使うように求めても「財布が別だから、河川改修ではカネがつかない」と消極的になる。
土木特定財源を廃し、自治体の裁量権強化を
かつて、四国の中山間地にある過疎地域の地域振興策について現地を訪れた際に、道路に投じる予算を何にでも自由に使っていいとしたら道路拡幅に投じるかと町長らに尋ねたことがある。答えは異口同音に「道路だったらお金がついてくるが、道路に使わないとお金は回ってこない。何に使ってもよいと同じ金が回ってくれば、道路なんかには使わない」という反応だった。
戦後日本の財政構造が「土建国家」といわれたのは、道路やダムに巨額の税金を投入する仕組みをつくりあげて、都道府県や市町村を誘導、支配してきたからである。
政府の地方分権改革推進委員会がいま、こうした道路や河川整備の事務・事業を国から地方へ移譲する第2次分権改革を進めようとしているが、省庁側は真っ向から抵抗している。委員会は5月末にもまとめる第1次勧告にはこうした見直しを盛り込む構えだが、仮に道路や河川整備の権限を地方へ移譲できても、特定財源をバックにした特別会計で国が優先的に予算付けする仕組みを残したままでは、金がつきやすい道路やダムに自治体行政が相変わらず依存する体質はぬぐえない。
道路特定財源の一般財源化に自治体は“反対の大合唱”だが、大本のところで分権改革を進める姿勢を見せないと、形ばかりの分権化のままいつまでも中央支配のくびきから脱することができない。