まちの緑を壊す力と、育む努力

明石まちづくり小史 ♥ 7:松本誠 2008.5.12

山のない明石にも身近なグリーンゾーンがいっぱい

 サクラが散ったら、あっという間に新緑の季節になり、みずみずしい新芽の若葉がまちを覆う。5月のゴールデンウイークがすむと、まちの緑はひときわ鮮やかになり、明石駅へ向かう通いなれた道を歩くのが楽しくなる。

 ところが、連休明けの朝、いつもの住宅街の小道でチェーンソーの甲高い音とともに見慣れた大木が伐採されているのに出くわし、とたんに暗い気持ちになってしまった。明石のまちの自慢のスポットである「時の道」にある明石神社境内を覆っていた木々が丸裸にされていたのだ。この1月早々に、古い神社の建物もほとんど解体撤去され、神社の社殿再建費用を生み出すために境内の敷地を売却するという話は聞いてはいたが、鎮守の杜(森)が丸裸にされるとは思わなかった。

 時の道は、明石のシンボルである明石公園のお城と子午線の時計塔がある天文科学館を結ぶ約2キロの散歩道。明石神社は、明石公園から東へ出て間もなくの高台にあり、明石海峡を望めるポイントである。

 住宅に囲まれたつつましいこの神社は、もとは明石城主になった越前松平直明らの霊を明石城内に祀ったのが起源で、明治の廃藩に伴い一般参拝する明石神社と称していた。その後、明石城址の御料地編入を経て大正7年に県立明石公園となるとともに現在地に移転した。神職が常駐しない無住の神社で氏子もいないことから、改築されることもなくひっそりとたたずんでいたが、維持費を捻出するためにかつても境内地の一部が住宅地に売却されるなどしてきた。

 この神社には由緒の深い古ぼけた大太鼓があった。明石城築城以来、正門近くの太鼓門に据えられて城下に時刻を知らせてきた「刻打ち太鼓」である。明石市の文化財に指定されていたが、1月の社殿解体時に再建まで別の神社で保管されている。

 神社の由緒はともかく、この神社の境内では、私も子どものころ、学校の行き帰りによく遊んだ。緑深い木々と海峡を眼下に見下ろせる景勝地は、「明石っ子」であることを誇りに思った。

 神社仏閣のこうした鎮守の杜は明石市内にもたくさんある。私が明石で記者活動をしていたちょうど20年前、神戸新聞明石版で「街に緑を…明石のグリーンゾーン」という連載記事を20回にわたって掲載した(1988年8月30日~10月5日)。東西に細長く山や丘陵地の少ない明石では、市が植樹に力を入れる一方、丘陵地の雑木林や川や池に沿って茂る樹林、土手の緑、鎮守の杜などの自然の緑地保全にはほとんど手が打たれていない状況に危機感を感じたからだ。連載はそうしたまち角の緑を訪ね歩いて、地域の人びとと緑のかかわり、危機に瀕するグリーンゾーンに警鐘を鳴らした。

 連載取材であらためて感じたのは、乱開発が進むまちにも意外と豊かな緑があちこちに点在していることだった。まちにある既存の緑はそれぞれ歴史を持ち、地域の人びとの暮らしと深い結びつきをもって息づいてきた。公園や街路樹に巨額の税金をかけて緑を増やす努力をするよりも、住宅街の生垣や庭木も含めて既存のまちの緑を大切にし、広げていく努力をすることの方が大切であり、緑のストックを増やすことになる。

 ところが、行政はこうした緑の保全に力を注ぐよりも、予算を計上して公共空間に緑を創造しようとしがちだ。公共空間に新たにつくり出した緑は、その維持管理にまた膨大な予算をつぎ込むことになる。

 前記の連載にも取り上げたが、明石市役所一帯にある中崎緑地は、かつては白砂青松の中崎海岸に面した海浜緑地だった。その海を埋め立てて、明石外港を建設し、埋立地の売却に失敗した土地に市役所や市民会館、小学校、マンションなどが立ち並んだ。それらの背後地になってしまった中崎緑地もかろうじてかつての面影を残す建物と一緒に緑濃い緑地を形成してきたが、ここ10数年ほどの間に緑地に南面した昔ながらの建物が高層マンションへと次々に建て替えられていった。

 建築規制上はとめようがなかったということだが、美しい街並みは明確なまちづくりのビジョンを持ち、まちのストックを壊すような“私権”の制限を大胆に行っていかない限り創出できない。

 海峡公園都市のなけなしのグリーンゾーンが、マンションやコンクリート建物に遮られていく様子を見るにつけ、都市景観行政や緑の保全行政の無策を感じるのは私だけだろうか?

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