波乱万丈、9人中8人が不祥事辞職や急死、落選で退場

連載:明石市長変遷史明石まちづくり小史 partⅡ》松本 誠 2023.6.9

0》はじめに
1》このページ
2》「明石市」の消滅救った住民投票
3》…… 続編を予定 ……

 戦後の明石市長は、就任したばかりの丸谷聡子市長を含めて10人を数える。泉市長まで9人の市長像と市政の概要については、90年代初頭までは「明石市史 現代編Ⅰ」(1999年11月刊行)に詳しい。この市史の編さん委員会は11名の学者・研究者で構成され、政治、経済、経営、教育、都市政策、郷土史などの研究者が丁寧な資料収集のもとに、約900ページにまとめられた貴重な記録だ。筆者は今回あらためて通読して、その記述の丁寧さと時代背景を併せての評価を読み込み、史料価値の高さに気づいた。市政の担当者はもちろん、明石のまちづくりと市政に関心を持つ人は、ぜひ一度目を通されることをお勧めする。

 また、筆者は生粋の明石っ子で一時期は仕事の関係で西宮市に暮らしたことはあるが、1983年以降に明石市政を報道する新聞記者活動に従事して以来、その後も地元のまちづくり研究会や市民活動団体のメンバーとして、明石市政とまちづくりを見つめてきた。
 そんな関係もあって、上記の市史が記述の対象としていない1990年代以降の市政については独自の調査研究資料を保有していることもあり、それらの資料も併せながら、この変遷史を書いていきたい。
 さて、本題に戻る。

引責辞任同然の市長群像

 明石市政は90年代以降の30年余、岡田進裕(1991年~3期)北口寛人(2003年~2期)泉房穂(2011年~3期)の3人の市長によって、計8期32年間を経てきた。90年代以降というと、バブル経済が崩壊し、以来「失われた30年」と言われるぐらい厳しい政治、経済、社会の環境が世界と日本で続いてきた時代だ。文字通り「歴史的な転換期」に当たる。
 そんな時代背景とどう関係するのかは別として、この間の明石市政を担った3人の市長は、いずれも「円満な任期満了」で終えたとは言えない。引責辞任同然の最後だった。
2003年に任期を3カ月残して辞めた岡田市長は、在任中の大蔵海岸花火大会事件(通称:大蔵海岸歩道橋事故)の責任を追及され、途中辞任した。事故は、言わずと知れた花火大会の見物人が朝霧駅前の歩道橋での「群衆なだれ」に巻き込まれ子どもたち11名が死亡した惨事だ。しかも、その年末には大蔵海岸の砂浜陥没によって5歳の幼児が生き埋めになり死亡した。市長はそれらの政治的責任を追及され、ついに翌年12月になって任期を残して辞任することを表明した。
 次の北口市長は順調な市政運営を続けていたが、2期目の後半になってからさまざまな公私混同が追及されたあげく、明石海峡フェリーの存続をめぐる市議会での「虚偽答弁」が表面化し、問責決議を受けて12月議会で3選出馬の断念を表明し退陣した。
 泉市長も再度の暴言騒ぎで市議会から問責決議を突きつけられる中で、任期末での退任だけでなく「政治家引退」まで表明して市長の座を去った。

選挙違反、合併めぐる住民投票の敗退、選挙で敗退

 ところが、こうした歴代市長の「不本意な退陣」はこれらに止まらない。泉氏まで9人の市長のうち8人までが、本人の意思に反して「不本意な退陣」に追い込まれていた。
 不祥事で途中辞任したのは、戦後4代目の吉川政雄市長(1967年~1期)だ。県議出身の「モーレツ市長」の異名もあったが、公選法違反事件に連座し任期満了直前に辞任。その後在職中の汚職容疑でも起訴された。
 2代目の田口政五郎市長(1951年~1期)は、神戸市との合併を誘導し賛否が対立する中で合併の可否をめぐる住民投票が実施され、反対派が圧勝する中で敗退した。合併問題の責任を追及されていたが、併せて市長当選直後のリコール請求をめぐる敗訴も重なり、任期満了を前に辞職した。
 田口市長辞任の後、合併反対派の支持を得て就任した丸尾儀兵衛氏(1955年~3期)は歴代唯一の企業経営者で高度成長期前半の急拡大期を担ったが、4期目をめざした選挙で上記の吉川氏に僅差で敗れた。
 初代の辻猛市長(1947年~1期)も田口氏に5000票弱の差で再選を阻まれ、55年に再挑戦したが及ばなかった。
 5代目の衣笠哲市長(1971年~4期)は「コミュニティー市長」と言われ、歴代最多の4期目の当選を果たしたが、当選直後にクモ膜下出血で倒れ、4期目の采配を振るうこともないまま選挙1か月半後に死去し、7月に再選挙が行われた。唯一の現職死亡で市葬が行われた。

円満退任はただ一人だが…

 このようにして、歴代9人の市長のうち8人までが、本人にとっては“不本意”な退陣になっている。唯一任期を全うし“円満な退任”になったのは、6代目の小川剛市長(1983年~2期)だけとも言える。
 衣笠氏の急死と小川市長の登場は、筆者が市政担当記者として直接関わったケースで、その背景を振り返ってみたい。(岡田氏まではすべて故人になっている)
 衣笠氏の急死(6月11日)を受けて7月に再選挙が決まったが、当初立出馬の動きを見せたのは、当時の助役だった岡田進裕氏と収入役だったI氏だった。この動きに「待った」を掛けたのが、当時の商工会議所会頭だった地元の建設会社社長T氏。
 「市長の急死の後を内輪の幹部職員同士が争うのはみっともない」と“仲裁”に入り、両氏とも手を引くように説得し、もう一人の助役だった小川剛氏を代わりの候補に立てる“裁定”を下した。小川氏は兵庫県の人事畑を歩き土木部次長を経て衣笠市長1期目から3期12年助役を務めていたが、市長後継者とは見なされていなかったことから、当時は“タナボタ市長”とも言われた。当初は1期だけとも言われていたが、高度成長末期からバブル崩壊までの安定期を2期無難に務め、助役として切り回していた岡田氏に引き継いだ。
 この2人の市長だけが、明石市では「職員上がり」「助役上がり」の市長でもあった。

(この項 終わり)

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