首長や政治家の「リーダーシップ」の履き違え

2008.3.31 松本誠

民意不在の暴走と、市民主体の行政(政治)の狭間

 リーダーシップのない“名誉職”的な首長や政治家はもはやお呼びではないことは浸透してきたものの、今度は変なリーダーシップを発揮して行政を混乱に陥れたり、政治の方向を誤る輩の横行が目立つようになった。「リーダーシップのないリーダー」にうんざりしていた庶民が、これに喝采を送ることも少なくないから、世の中は一層混迷を深めることになる。

首長トップダウンの予算が全会一致で修正削除

 明石市の3月予算市議会で、市立商業高校にスポーツ科を新設する予算案が提案されたことに対して、「準備や体制が不十分なまま開設を急げば混乱が生じ、生徒や進学する中学校関係者にも迷惑をかける。2009年度の開設は時期尚早」と市議会が反対し、関連予算を削除した修正予算案を全会一致で可決した。同市議会は最近、市長提案をきわどい票差で否決する寸前の状態が頻発しているが、全会一致で市長提案を退けたのは初めてである。

 この案件は、肝心の学校現場からも開設は2010年度以降に延ばすように求める要望書が出る中で、トップダウンで押し切ろうとした。なぜ、そのような無理押しをしようとしたのかは定かではないが、最近の同市では、JR新駅設置や子ども図書館の新設、中心商店街の活性化策など、関係市民との調整はおろか庁内での調整もそこそこに“トップダウン”で施策を公表し強引にすすめるケースが少なくない。施策そのものは必ずしも間違っていないものもあるが、「住民主体のまちづくり」を標榜しながら、進め方では計画策定段階に市民が介在しないだけでなく、プロセスが明らかにされないケースが少なくない。

各地で、合意形成のプロセス軽視の風潮

 こうした傾向は明石市に限らず、最近では大阪府の若手新知事のトップダウン施策が注目されているほか、「やり手」といわれる首長にそうした傾向が散見される。いずれも共通しているのは、「市民受けするいい施策なら、首長のリーダーシップで進めるのに文句はないはずだ」という思い込みだろう。マスコミ受けする思惑も透けて見える。

 そうした典型例は、国政の場で小泉純一郎首相が縦横に発揮し、退陣してすでに二人目の首相の時代になっても、そのリーダーシップへの期待がささやかれている。

 国政、自治体を問わず、そうした政治家に共通しているのは「市民主体」という今日の民主主義原理を軽視していることだろう。いくらいい施策でも、市民や関係者の合意形成のプロセスを無視して、トップダウン的に進めるのは“強権発動”にすぎない。民主主義というのは本来、手間ひまがかかるもので、時間をかけて熟成させるところに妙味がある。「市民主体」や「参画と協働」という理念が大きく掲げられる時代にあっては、なおさらである。

 自治体の首長というのは、たくさんの職員を動かし、縦割りの仕事の枠組みに閉じこもりがちな職員の発想を総合的な視点から調整し、市民の意見を間違いなく反映させていく仕組みをつくりながら、議会とも情報を共有しながら議論していく役割を担う。ある意味では、多様な考え方を吸収し、自らの信念を注入しながら合意形成を図っていく「コーディネーター」でもある。自治体の規模が大きければ大きいほど、組織を活性化して動かし、トップの“情報欠乏症”あるいは“情報偏り症”を回避する仕掛けと注意力が求められる。

 意思決定過程のプロセス情報(経過情報)の公開、共有が必要なのはそのためでもあろう。

計画段階から市民と職員が協働して施策をつくる仕組みを

 選挙で選ばれた首長は、その政治理念と主張してきた政策を実行するために全力を投入するのは当然だが、大事なのはその施策を実現していく手法、プロセスだろう。自らが抱く理念や具体案を職員や議会、市民に熱っぽく語り、計画段階から市民と職員が協働して参画していくための仕組みをつくり、市民や職員が自ら生み出し、育て上げた施策であるという自信を持てるように仕向けていくことが最も大事なことではなかろうか。

 明石市はじめ自治体の多くはいま「自治基本条例」の制定に取り組んでいるが、この基本条例づくりの真価は、住民自治を確立していくために、文字通り住民が主体となった政策立案と実行を進めていくための仕組みづくりにある。その足元で、参画と協働にもとづく政策づくりのプロセスをないがしろにした、誤った“トップダウン”が横行するようでは、何のための自治基本条例づくりかということになる。

 いや、だからこそ、市民が自らを主権者として自覚した「市民主体の行政」を進める枠組みや仕組みを、しっかりとつくっていかねばならないのかもしれない。

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