“珍事”死んだふり出馬 | 明石・大阪

2019.3.16 松本誠

▶ 2019年3月:市民マニフェスト選挙(第3次の1:詳細)

選挙の私物化、明石・大阪

 かつて「死んだふり解散」と言うのがあった。1986年の参院選に際して、当時の中曽根首相が突如として衆議院の解散に打って出て、衆参同日選挙を断行して圧勝したときの命名だ。
 10日に告示された今回の明石市長選挙の展開で、なぜか「死んだふり出馬」という命名がぴったりくるように感じた。職員に対する「暴言問題」の表面化で3日後に辞職、以降「出直し選挙」の出馬について1カ月余り沈黙を続けていた泉房穂氏が、選挙告示の3日前になって突如「出馬表明」して立候補した経緯を見ると、文字通り「死んだふり出馬」である。中曽根氏は「半年ぐらい前から考えていた」と後に述懐しているが、泉氏の場合は1カ月余の経緯からみて少なくとも2、3週間前から周到な準備を重ねていた節が濃厚だ。
 選挙に「出る、出ない」は、もちろん本人の自由である。しかし、自ら引き起こした暴言問題で、電光石火のごとく辞職したことによって、4月の統一選挙に予定されていた市長選挙が1カ月前倒しになり、出直し選に出るのか出ないのかが最大の焦点になっていた。
 この間、自ら編成した新年度予算案が提案された予算議会が始まり、議案の提案と説明責任も持っていた市長がその日程を承知の上で辞職することによって、説明責任を果たす機会を自ら閉じてしまった。議会が始まれば、当然ながら暴言問題の経緯や責任、今後の対応などについて議員の厳しい質問にさらされる。議会を通じて説明責任を果たす貴重な場であったのを放棄してしまった。
 さらに、選挙が近づき「泉市政の4年間を検証」する市民団体による「市民マニフェスト検証大会」が辞職2日後に予定されていた。市長自身が昨年秋から出席を約束していた場であり、暴言問題についても市民に直接説明する絶好の機会だったが、辞職によって出席しなかった。
 また、告示日1週間前の3月2日には、市民団体による「市長選挙立候補予定者による公開討論会」が迫っていたが、これにも直前に「謹慎中の身なので、その立場にない」と主催団体に返信していた。だが、討論会の翌日午前には支持者による集会が予定され「出馬要請」を受けて7日の出馬表明へのセレモニーが始まっている。

 辞職したとはいえ、事実上の“現職”の立場にありながら告示日3日前まで出馬を表明せず、告示日3日前に開かれた選挙管理委員会による「立候補予定者への事前説明会」にも出席しないのは、異例中の異例。むしろ“珍事”とも言える。
なぜ、このような展開になったのか? 本人の意思はともかく、客観的な経緯や状況から見ると、以下のような推理と問題点が指摘できる。
 一つは、市民に説明する責任を徹底して忌避したことだ。選挙までに市議会での説明機会や市民への説明機会が3回もあったにもかかわらず、いずれも逃げ切った。市長としての説明責任を回避する姿勢が際立った。
 二つ目は、選挙の私物化ともいえる姿勢だ。市長を8年もやっていると、選挙だといっても今さら名前を売り込んだり、政策を訴えなくても、知名度も集票も心配ない。暴言問題を上回るドラマチックな展開をすることによって、対抗馬を圧倒できる。このようなシナリオのもとに周到な展開を図ったとも見られる。有能な選挙コンサルタントがついていれば、朝飯前のシナリオだ。
 実際の選挙戦では、これが功を奏するかもしれないが、そこには重大な問題がある。選挙に際して「政策」を訴え、市民に出馬の動機や政策実現の道筋を語り、市民の質問や疑問に応えるという「真摯な対応」が欠如することだ。1週間の選挙戦に入れば、候補者から一方的なメッセージが発信されるだけで“対話”は期待できない。有権者は単なる“票田”に過ぎない。告示日に至る過程で、公開討論会やさまざまなプロセスを経ながら有権者に周知していくというプロセスをカットし、抜き打ち的な立候補で選挙戦に入るということは、民主主義のプロセスである選挙の意味合いを否定し、票さえ取って当選すればいいという、一種の「選挙の私物化」でもある。
 公選法では、首長の都合のいい時に選挙し選挙戦を有利に展開することを制限するために、首長が辞職によって突然の選挙になった場合には、任期は残余期間とするという制約を設けている。今回の場合も、辞職によって選挙を恣意的に繰り上げたわけだから、再選したら1カ月後に再選挙になる。しかし、そのために生じる費用はともかく、2回の選挙を乗り切る自信があれば公選法の制約も歯止めにならない。
 時を同じくして、大阪でも大阪維新の知事と市長の2人が同時に辞職しダブル選挙(実際は府議、市議併せて4つの同時選挙)になった。これも公選法の規制をくぐって「タスキ掛け立候補」によって「残余期間」という任期の制約を免れた。大阪も明石も、自己の都合に合わせた「選挙の私物化」といえる展開になる。

 主権者市民が選挙で自らを代表してくれる政治家を選び、政治と行政を委ねる。選挙は間接民主主義を担保する、最も重要な仕組みである。この仕組みを息づかせるためには、市民の前で堂々と議論を交わし、市民の疑問や質問に答え、候補者同士が政策をたたかわせる討論や議論の場を保障することが不可欠である。こうした「選挙の公正さ」が失われたら、政治不信が広がり、選挙の投票率も低下し、民主主義の基盤が損なわれる。
 候補者となる者はここに細心の注意を払い、有権者を“票田”扱いせず、有権者の主権を最大限尊重する姿勢を堅持しなければならない。
 ある新聞は、今回の市長選を「泉劇場」と称した。「小泉劇場」「橋下劇場」「小池劇場」と続いた“選挙の私物化”の再来は、ごめんだ。

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