都心空洞化と明石駅周辺の中心市街地整備

明石まちづくり小史 ♥ 5:松本誠 2008.3.31

 明石市は2008年度予算の中で「特色ある新規施策」のトップに、明石駅周辺の中心市街地の活性化を掲げた。中心市街地のまちづくりの方向性やハード、ソフト両面からの活性化策を検討する新たな組織を立ち上げるとともに、5年間の基本計画を策定し、都心循環バスの社会実験運行や銀座商店街のアーケードの再整備などを行うという。

 駅前の目抜き通りに立地しながら3年前(2005年8月)に閉店したダイエー明石店跡の再開発などを視野に置いたものだが、明石駅前周辺の中心市街地整備計画は過去何回も構想が立てられ、消えていった。この40年間、大型店の立地環境の変化に翻弄され続けながら「明石の顔」のイメージを構想できないまま揺れ動いてきた足どりを、この時点で振り返っておくことは大切だろう。

 明石駅前周辺の中心市街地は、戦争末期の度重なる空襲で焼け野原になり、戦後は密集バラック建ての“闇市”から出発した。それも束の間、1949年(昭和24)2月の駅前大火で426戸が全焼し、ようやく本格的な復興がはじまった。

 復興の基本的な構図は、狭い商店街だった駅前通りの国道2号線以南を幅30mの銀座通りとして拡幅整備したほか、鉄筋5階建ての明石商工会館(明石デパート、現在のらぽす。5階に旧市民会館、現在は市民ホール)を復興のシンボルとして建設した(1951年)。また、国道以北の駅前通りに密集していた商店などを収容するために1958年には1階に「あけぼの商店街」を配して2階から上が住宅になった4階建てのげたばきアパートを建設した。現在は老朽化しているが、当時は日本住宅公団の関西支社ができて最初のげたばき住宅として、先駆的な建物でもあった。

 次の変化は1965年(昭和40)前後、大型店時代がはじまる。1964年12月には複々線化した国鉄(JR)高架が完成し、ステーションデパートが開業。66年にはダイエー明石店が開店した。2年後には駅前に後のジャスコ(当時はフタギ)が新築移転し、東仲ノ町で再開発計画への取り組みがスタートする。70年には魚の棚の北部を再開発して西武百貨店を誘致するという「矢野構想」(元明石商工会議所会頭の矢野松三郎氏)が発表され、引き続き市が銀座東地区(桜町一帯)を高層化する再開発プランを打ち出した。

 しかし、こうした大規模開発計画は、1973年の石油ショックと矢野氏の死去で立ち消えになったが、70年代後半の都市開発志向の中で、74年には再び魚の棚一帯4ヘクタールをビル化する再開発計画を市が発表、銀座東地区の第2次再開発プランも76年につくられた。この間に戦災復興区画整理事業として延々と続けられてきた駅前交差点以西から明石川までの国道2号線の拡幅が完成、東仲ノ町の再開発準備組合発起人会が結成された。

 だが、80年代に入るとステーションデパートの新館がオープンし、山陽電鉄線の高架事業がはじまったほか、80年代後半には郊外への大型店出店攻勢が明石駅前の中心商店街を包囲するように進んだ。当時、中心商店街は「黒船の来襲」と大慌てになったが、有効な手を打てないまま90年代に入ると次々に郊外店がオープンしていった。いわゆる「都心空洞化」のはじまりである。

 91年には長い期間をかけた山電高架工事が完成し、95年には国鉄高架化以来30年ぶりに駅前広場が完成した。駅内商業施設はさらに増強される一方、東仲ノ町の再開発事業が基本構想策定以来30年ぶりに完成し、「アスピア明石」が2001年11月オープンした。当初の百貨店誘致には失敗したものの、約160戸の分譲マンションと一体化した明石で初の再開発事業で、商業施設とともに中心市街地の重心は国道以北へ一層傾斜し、南部の空洞化に拍車をかけた。

 2000年に入ると、今度は大型店の撤退再編が急ピッチですすみ、明石駅前だけでなく明石市内の大型店の地殻変動が起きる。ダイエー明石店の撤退閉鎖はその締めくくりのような格好になり、明石駅前には百貨店誘致が空振りに終わっただけでなく、総合スーパーも姿を消してしまった。

 明石駅前の中心市街地のまちづくりは、大型店に振り回された40年を経て、振り出しに戻ったかのような感がある。この間打ち上げられた数々の大規模開発整備構想は、ことごとく潰えた。いずれも、大型店に依存し、クルマ優先、大型ビル建設を志向した大規模開発計画だった。大型店に見放されて、あらためて連綿と続いてきた地域商業を核とした、明石らしい駅前商業地域への再生策を立てねばならない時期に直面しているといえる。

 明石のまちづくりの財産は、淡路島を望む明石海峡に面した「海峡公園、交流都市」とうたいながら、明石駅前にはここ20年ほどで構想ビルが林立し、ペンシルマンションの乱開発がすすみ、広告塔が乱雑にスカイラインをさえぎり、高架の明石駅に降り立った人の目に海峡の景色が映らなくなってしまった。明石公園の本丸の高台からも、海峡の景色をビルがさえぎってしまった。かつては真正面に海峡と淡路島を望めたシンボル道路の駅前通り、銀座通りの先には目隠しになるマンションが立ちはだかる。

 新しい中心市街地のまちづくり構想は、こうした反省のうえに立って、明石らしい表玄関の品格を再生する計画になるのかどうか。単なるダイエー跡の効率利用だけに終わり、再び“まち壊し”を促進する高層ビルや高層マンションの建築だけに終わるのかどうか。いま、明石駅前は重要な岐路に立とうとしている。

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