「明石市」の消滅救った住民投票

連載:明石市長変遷史明石まちづくり小史 partⅡ》松本 誠 2023.6.16

0》はじめに
1》波乱万丈、9人中8人が不祥事辞職や急死、落選で退場
2》このページ
3》…… 続編を予定 ……

── 60年後のいま、住民投票条例は棚ざらし ──

 戦後の明石市政を振り返って誇りに感じるのは、戦後10年ほど「神戸市への編入合併」問題で揺れ動いた末、賛否両論で真っ二つだった中で「住民投票による決着」が提案され、圧倒的多数の合併反対が確認されて「明石市」の消滅を救ったことだ。当時の市長や市議会の多数派の空気は「合併促進」だったが、住民投票で“民意”が明確になった。あれから60年余、合併話は表に出ることなく、明石市は中核市として全国にその存在感を示している。

戦後の明石市発展の“秘話”に見る先人の足跡

 市制施行後の明石市は、現在の播磨町よりも小さい7.7平方㎞の狭い市域で、市政伸長のためには隣接町村との合併の必要性は当初からあった。他方、神戸市は戦前から「大神戸市」をめざして市域拡張に取り組み、すでに1942年には明石郡垂水町を編入し現在の西区にあたる明石郡11か村とも合併交渉を行っていた。明石市も戦前から旧明石郡を含めた区域を一体とした都市をつくるのが念願だったが、戦後いち早く神戸市が旧明石郡を編入合併し、さらに明石市を含む大久保以西の西部地域も編入合併する方向へ動いた。大久保、魚住、二見の3町村は一時、神戸市への編入に傾きかけており、明石市は周囲を神戸市に囲まれて孤立する懸念が出ていた。
 当時の兵庫県も神戸市の急拡大や「特別市」昇格によって権限が神戸市に移ることを警戒していたことに鑑み、明石市は西部3地区の神戸市への編入を認めないように県にも働きかけるなどの運動を繰り返し、最終的に西部3町村は1951年1月に明石市と合併し現在の市域になった。この合併によって明石市は、人口が11万2000人と約2倍になり、市域面積も現在に近い約3倍になった。
 合併直後の高揚感の中でこの春行われた市長選は91.5%という高い投票率でおこなわれ、公選市長初代の辻猛市長は、参議院議員で大蔵政務次官を経験した田口政五郎氏に4800票余りの接戦で敗れた。市議選も定数36に対し128人が立候補し、競争率は3.5倍と史上最多の争いになったのは、合併直後の選挙ということもあった。

神戸市との合併の動きが再燃、財政窮迫もあって合併賛成へ雪崩も

 当時は自治体の財政ひっ迫が厳しくなっていたこともあり、1953年9月には町村合併促進法が制定され、いわゆる「昭和の大合併」の動きが全国的に巻き起こる中で、神戸、明石両市の合併の動きが再燃した。53年11月の原口神戸市長の再選後に具体化しはじめ、翌年初めごろから両市で非公式な接触が行われ、5月には神戸市の市長と議長が明石市を訪れ正式に合併を申し入れた。実現すれば神戸市は人口100万を突破し、京都や横浜市と並び、面積も5大都市の中で2位になるはずだった。
 当時の合併促進法は小規模な町村の整理強化を目標としており、この合併は当時としては全国でも珍しい大都市と中都市の合併として注目されていた。それだけに「歴史があり、一定の規模を持つ明石市をなぜなくさねばならないのか」という反対運動も起こった。
 しかし、神戸市の申し入れに対し明石市の田口市長は神戸市の合併趣旨に同意し、市長自身も財政的に行き詰まっていたこともあり、積極的に応じたい意向だった。これに対し、市議会は賛否両論が拮抗し、役員選挙をめぐり両派が譲らず、1954年5月議会は流会になった。6月に緊急議会を招集したが、さらに対立が続き、7月になってやっと正副議長が決まる状態だった。市議会は合併の是非に関する特別調査委員会を設置し、委員会は4班に分かれてそれぞれ調査を担当、8月末には合併比較資料を公表して市民に情報を提供した。
 当初、市民は判断材料がなく迷っていると報道されたが、6月に入ると反対運動が活発化し、辻猛・前市長を中心に「合併反対愛市同盟」が結成され、当選直後にリコール請求されていた田口市政への批判運動も展開された。当初は前市長を中心とした現市長への批判勢力が反対運動の中心を担っていたが、有力な財界人も次々に反対を表明しビラ配布を始めたり、東京在住の明石出身者で組織された明石人会(中部謙吉代表)も合併反対を表明した。
 県も両市の合併に強い関心を持ち、反対の意向を持つ明石市の有力者とも非公式に接触し、反対運動に資料の提供や肩入れをしていたことも報道されている。県が合併に反対したのは、適正規模である都市の合併は合併促進法の趣旨には合わないことや、神戸市が過大に膨張することへの懸念からだった。市内の反対運動はその後も地元経済団体の運動が活発化し、商店街連合会が反対を表明し白タスキでデモ行進したり、商工会議所が臨時議員総会を開き反対を決議、市会議員待遇者会が反対を決議した。
 反対運動の盛り上がりに危機感を強めた神戸市側は合併推進本部を設けて、明石市の各界各層への働きかけや、県や自治庁への働きかけを強めた。明石市内でも大久保町で合併促進会が結成されるなど、西部地域では明石市への合併条件の履行が十分ではないという不満も反映して、促進運動が盛り上がった。

民意の反映求めた中間派議員の緊急動議で住民投票、合併反対が3倍と圧勝

 大詰めを迎えた1954年12月市議会。多数の傍聴者が詰めかける中で15日開会し、23日に合併議案が上程されると取り扱いをめぐって議場は紛糾、混乱し休憩に入った。翌24日再開された冒頭、一人の議員から住民投票を行う緊急動議が出された。

 「合併問題は市民生活に及ぼす影響が甚大である。かかる重大問題は、議会に議決権があるとしても、議会は常に市民のための市政であり、市政は市民への最大福祉の増進に寄与せねばならない。この際は、市民の納得のいく厳正にして公明なる判断の上に立って可否を決することが議会としての方途である。市民の意思を十分に反映する住民投票を行って、その意を体するべきである」(会議録から抜粋)

 この住民投票実施の動議が18対17で可決され、特別対策委員会を設置した。合併賛成派の議員の多くは住民投票に反対だったが、中には住民投票に賛成する議員が居たために可決された。
 明けて1955年1月23日に行われた住民投票は65.1%の投票率で、合併反対3万3498票、賛成1万727票と、2万2000票余りの大差で反対派が圧勝した。翌24日、田口市長は合併案の撤回を申し入れ、25日の臨時議会で可決。田口市長は就任直後の「リコール請求」の効力をめぐる裁判に敗れたこともあり2月3日辞職した。この後の市長選は、合併反対派が擁立した製粉会社社長の丸尾儀兵衛氏が辻猛元市長らを破り、初の経済人市長に就任した。
 以来60年余、神戸市との合併問題は再燃していない。

住民投票条例の制定、3回にわたる否決で“違憲状態”つづく

 明石市は2007年から3年近くかけて、住民参加の検討会を経て2010年4月に明石市の憲法とも言える自治基本条例を施行した。この条例は「市民自治のまちづくり」進めることを冒頭に掲げ、「市政への市民参画」「協働のまちづくり」「情報の共有」を市政運営の原則に掲げている。これを実現するために市民参画推進条例と協働のまちづくり推進条例、および住民投票条例の3つの手続き条例を制定することを定めているが、住民投票条例案はこれまでに3たび提案されたものの否決され、13年目に入っても未だに施行されていない
 この間、2012年には明石駅前の再開発事業(パピオスあかし)の計画をめぐり、市民団体が住民投票で市民の賛否を問うべきだと、地方自治法に基づき「住民投票条例の直接請求」を2万余の署名を添えて提出したが、市議会の過半数の反対で否決された。
 住民の意思を市政に反映する市政運営のあり方は、半世紀前に比べて比較にならないほど進歩しているはずだが、住民投票条例をめぐるこの10年近くの足取りを振り返るたびに、60余年前の先人たちのギリギリの努力と奮闘の成果を、眩しく感じる。
 あの努力がなければ、今の明石市は自治体の誇りも、「明石市」という名称さえ存在しない。「民意の反映」についての重みを、あらためて考えたい。

(この項 終わり)

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